吉田ます子のでんでん日誌 |
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活動日記 2011年5月4日 |
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5月4日 3.11 今を生きる日本人にとって、決して忘れられない日となりました。 「必要なものを現地に持って、とにかくトラックを出そう!」と、里山の風景をつくる会とTICO、さくら診療所、山川町、阿波町のみなさんにも支援物資を集めていただき、やっと探し当てた4tトラック(花由さん提供)。後に続く10tトラックに先立って宮城県へ行ってきました。北陸道、新潟、山形ルートで往復2,200km、4泊4日の旅でした。 その頃は福島第1原発の1号炉、3号炉の建屋が水素爆発で吹き飛び、いつチェルノブイリ状態になるのか、という時期で、プロの運転手さんも見つからず、居ても立ってもいられないつれあいが「自分が行く」と言い出し、「もしものことがあっては」と止めてもきかないので、「それなら」と私が行くことになりました。 まだ雪の降る東北、1日がかりで冬タイヤとチェーンを探し、結局スタッドレスタイヤはなくオールシーズンで、チェーンは高松にありました。昨夏の参院選のため、8ヶ月無休で早朝から深夜まで運転をしてくれた運転のプロ中原氏にお願いし、予備の軽油をこっそり積み込んで出かけました。 長野、新潟あたりから、ガソリン不足でGSは長蛇の列、宮城、山形では、数百mから1km以上。灯油缶を持った人も並んでいました。自転車の前に灯油缶を載せて走っている人も多数、コンビニには商品が半分もなく、1日数時間の営業で閉店中も人が並んでいました。国道沿いの公衆トイレは、水が出ないためドアがロックされていました。水と食料とエネルギーの大切さ、その安全保障の必要性をひしひしと感じます。 名取市では、知り合いの開業医が津波被害を受けた地区の避難所の訪問医療をしており、そこに薬を届けました。他の大量の物資は名取市の物流センターとなっている体育館に。ボランティアの受付もしており、若い人たちが集まっていて、私たちの4tの荷物も20人で次々降ろしてくれました。 集積所から避難所への物資の配達もできていて、避難所の灯油も優先的に確保されていました。診療所の前の道路は津波が来た泥の跡がありましたが、私たちが通った道は目立った建物の被害がなく屋根瓦が落ちている程度、それでも市役所に貼り出されている人探しのメモや死亡者のリストや道沿いにある「ご遺体安置所」の看板が痛々しく、「やはりこれは現実なのだ」と思い知らされました。 車中の余震、携帯の緊急地震速報の中、「今、必要なもの」を役所に聞き取りし、次は仙台市役所へと向かっていると、娘から「原発の2号機から煙が出てるよ、早く帰ってきて」と電話があり、仙台市役所での聞き取りを終えて、夕方から雪崩危険通行止めとなる峠の道を急いで引き返すというわずか半日足らずの被災地入りでした。 その後、TICOより、医師派遣による医療支援(22〜31日)、炊き出し、泥出し支援(1〜6日)などできることを続けています。今後は看護師や医師による医療支援、GWには大学生による泥だしを予定しています。 進行中の原発事故が、復興への出発点に未だ立てない被災地に重くのしかかっています。決して想定外ではなかったと思います。「原発へ依存する社会」から「地域分散型の自然エネルギーを選択できる社会」へ変えていきたいです。 春になって「夏の電力供給不足」という言葉がよく聞こえてきます。夏の間すべての時間で電力が不足するように聞こえますが、実際は8月の約10日間、それも午後1時〜3時ごろの2〜3時間、たった30時間くらいです。工夫すれば乗り切っていけるでしょうし、「原発の電気を使うより、もっと省エネできるよ!」と思う人はたくさんいるのではないでしょうか。 これから、エネルギーについて考えるドキュメンタリー映画の自主上映会や講演会など、みんなでやりませんか? 大変な時ですが、どういう未来を子供たちに残したいのかを考えていきたいですね。 最後になりましたが、支援物資やカンパにご協力いただいたみなさん、急なことで大変だったと思います。本当にありがとうございました。 |
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