吉田ます子のでんでん日誌 |
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活動日記 10月15日 |
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10月4日 温暖化を考える市民アクションの実行委員会のメンバー+県外でWTOやFTAの問題点について学び、発信するNGOのメンバーの協力で、これまで関東、中部、関西、九州などで12回開催されてきたフォーラムが、この日初めて四国での開催となった。 WTO(世界貿易機関)は自由貿易促進を主たる目的として作られた国際機関。FTAとは物品の関税、その他の制限的な通商規則、サービス貿易等の障壁を取り除く自由貿易地域の結成を目的とした、2国間以上の国際協定。 私たちは、社会科の授業で「日本は資源を輸入し、それを加工した製品を輸出することで利益を得た経済大国です」ということを教わった。そして自分の国に誇りを持ったものだが、「利益を得た」その一方で確実に「損をした」国々が存在することを想像できなかったし、そういうことを教えてくれた先生はいなかったように思う。 折りしも、リーマンブラザースの破綻に始まったアメリカ経済の失速が全世界に影響を及ぼし始めており、「グローバリゼーションの終わりが始まった!」と興奮気味の神田浩史さんの基調講演45分(議事録あり)は時間が足りず、消化不良の印象で残念だった。もっと詳しく神田さんの話を聞いて見たいものだ。しかし、そのあとのたったの25分間の池住義憲さんによるイラク派兵違憲判決の報告は、その日4月17日の名古屋高裁の様子を劇場型で再現し、聞く者に感動の涙を誘った。 「食」「住」「エネルギー」「平和」という4つのテーマに分かれてのワークショップは、圧倒的に時間不足、企画の反省が必要だが、このファーラムが四国で開催された意義は大きかったと思う。参加者も満員100人を超え、スタッフの苦労も報われたのだった。 心に残った話 この日最も心に残ったのは、夜の池住さんを囲んでの交流会。 NGOという言葉がまだなかった頃からのNGO歴30年の彼は、30年前、解放直前の南ベトナム・サイゴンでYMCAの職員として働いていた。避難民の子どもたちのデイケアセンターで、親も参加できる幼稚園のような施設で、厳しい状況下ではあったが、人々に喜ばれ働くことの自信と誇りに満ちていたという。 解放の前日はかなり危険な状況で、外国人記者や大使館関係者などが次々に大使館の壁を越えて国外脱出する中で、塀を一緒によじ登って、自分も助かろうとする数百人のベトナム人たちが米兵により次々と蹴落とされ、外国人だけ引き上げられ誘導されていく光景を目の当たりにした彼は、「蹴落とされるベトナム人たちを尻目に、自分だけ助けられることはしない。自分はここに残る。」と判断し、YMCA事務所に一人歩いて帰ったという。 翌日、サイゴンが解放され、その午前中にデイケアセンターを訪れた池住さんは、前日北ベトナム軍が威嚇のために発射したロケット弾が、自分たちが立てたYMCAの旗の傍らに落ち、そこにいた赤ちゃんが亡くなったと聞き、大きなショックを受ける。 援助しているつもりになっていた。しかし、自分が得意になって立てたYMCAの旗が、アメリカということで標的となり、赤ちゃんが死んだ。「赤ちゃんを殺したのは自分だ」という思いに苦しめられた半生、この事実は池住さんの「原罪」として、29年間、誰にも話せなかったという。このことを池住さんは「戦争の証人」として、名古屋地裁の法廷で初めて語るのだった。 そして「二度と戦争に加担したくない!」という強い思いがイラク派兵提訴→控訴審での違憲確定判決を生み出したのだった。辛い話、震える声を振り絞るように話す彼を前に、会場「里まちの家」は静まりかえっていた。 イラク派兵違憲判決を得た一番の理由! 話を聞いて「しゅん・・・」となった私たちを元気付けるためにか、最後に池住さんはお得意のワークショップ形式でこう質問した。 「名古屋の違憲判決を引き出した一番大きな理由は何だと思いますか?」 「一番の原因、それは私たちが『提訴したこと』です。提訴しなければ何も始まらなかった。」 「宝くじが当たった一番の原因は、宝くじを買ったこと」というのと同じ理屈だけれど、似て非なる感動! 当初、よく言われたそうだ。「池住さん、絶対勝てないよ」「負けるとわかっている裁判をなぜやるの?」と。 まず一歩を踏み出すことの大切さ、「一歩を踏み出した人は二歩目が踏み出しやすい」と、田中優さんも言っているそうだ。 折りしも安定型最終処分場を巡る徳島県第1号の公害調停が不調に終わり、まじめに調停をコーディネートしなかった(相手方が席につく努力をしなかった)県を相手に提訴した「園瀬川流域環境保全の会」の八木代表がその場にいた。「裁判までするのか?」と、会が内部分裂しそうになり、悩んだ日々の末に決断したばかりだ。苦しい選択をした彼女もこの話を聞いてくれていた。これは巡り合わせであり、そういう意味でも幸せな夜だった。八木さんと目を合わせると、彼女はしっかりと頷いた。 ともに歩く人 数年に一度お会いして、いつも生きる力をいただいている池住さん。このところ、彼は講演で「僕はいくつに見えますか?今年64歳になりました。若く見えるでしょう?(笑)90歳過ぎまで、あと30年は頑張るつもりです。90歳になっても僕の願う平和(戦闘がないという「消極的平和」でなく、すべて基本的人権が満たされる「積極的平和」)はまだまだ実現できないかもしれない。でもきっと私の次の世代が意志を継いでくれる。」という話をされるようになった。 ワークショップなどで司会・進行、参加者の心を「引き出す人」のことをファシリテーターというが、この言葉を10年ほど前に初めて聞いたのも彼から。当時小学生だった私の娘(現在大学生)は、彼のワークショップ「障害とは?」がとてもとても心に残ったようで、障害児教育の道を選んだ。池住さん曰く、「ファシリテーターとは、ともに旅する人」。たとえ遠く離れていても同じ目的を持って、ともに旅する、生きていく。彼は、出会ったときからずっと私のファシリテーター、心の支えである。 *この原稿がやっと完成した今日、12月18日、雇用・失業問題が緊急最重要課題として、日本社会を試すかのように出現しているさなか、何か出来ることはないかと考え込む毎日である。今すぐするべきことと構造的に大きく変えなければならないことに分けて対処しなければならない。 |
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