吉田ます子のでんでん日誌 |
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活動日記 2011年5月4日 |
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8月30日 03年、04年と続いて総選挙3度目の挑戦となった徳島3区の仁木博文さんは、徳島で生まれ育ったまっすぐな好青年、崩壊寸前の地域医療の現場から国政を志す産婦人科医だ。彼の最初の選挙から「政権交代」を目指して応援してきた。 03年には3万票以上の大差、04年の郵政民営化選挙では、小泉劇場での逆風にかかわらず、徳島では過疎地の郵便局存続をかけた小さな追い風で票差を縮めたが、まだまだ2万8千票差。現職は元副総理を大伯父に持ち、その地盤を頼りに徳島から代議士に、大女優を妻に持つ後藤田氏(大女優を妻に持つことは恋愛の自由だけど、とにかく手強いという意味)。 彼は「3親等以内という世襲の定義」には当たらないが、東京で生まれ育ちながら後援会組織や知名度など大伯父の「地盤」を利用するために徳島から立候補するという、「世襲の問題点」をまるごと背負っている立場にも関わらず、「自分は(3親等以内でないため)世襲には当たらない」とTVなどで喋っているのを聞くと、自民党の内部からの改革への期待もしぼんでしまうのは私だけだろうか。まぁ、世襲の候補者は選挙を初めから有利に闘えるので他の候補者との公平性という点が気になるが、それでもいい政治をしてくれればことさら問題はないのだろう。そうでない人が多いから問題になっているのかもしれない。 さて、候補者としての仁木さんをずっと間近で見てきて、3回目の今回、夫となり父となっただけでなく、多くの有権者と触れ合うことで、「政治を変えてほしい!」という私たちの思いをどんどん吸収してプラスのエネルギーで満ちていく感じになっていた。3区のみなさんも熱くて熱くて、昨年夏からの「解散は今か、今か」と本当に長い事実上の選挙期間を、よくぞボランティアで支えていただいた(私もそうだけれど)。「その気持ちに応えよう!」と、さらに仁木さんが頑張る、という好循環だったと思う。毎日のように選挙区を歩きながら、夜は個人演説会で応援しながら、その雰囲気に日に日に勝利を確信していったのだった。 しかし、しかし・・・。 全国では自民、公明の大物前職が次々と小選挙区で落選する中、「徳島3区はなぜ?」と思うと納得が行かない、悔しい。「もっと早くから一緒に歩くべきだった」「もっと早くからあの人にこの人に電話をするのだった」と様々な反省点が頭をよぎる。 しかし、1区では仙谷さんが完勝、2区の高井さんは小選挙区で初勝利、彼女の永年の努力を思うと涙が溢れてきた。そして民主党は308議席を得た。完全に政権交代が実現できることになったというのに、地元の徳島3区の結果を思うと心は晴れない。 1週間ほど経って、ようやく少し落ち着いてきた。比例区で復活当選を果たした仁木さんは、とにかく、国会の場で活躍できることになったのだ、そのことが大事。小選挙区での敗戦は、やはりちょっぴり悔しいけれど、贅沢は言わないことにしよう。政権与党の一員として医療政策の中心で頑張ってくれるのだから、「何もかもこれからなのだ」と。それに、国民が日本史上初めて(!)民主主義の最大の武器である「投票権」を行使して政権を変えたのだから、こんなめでたいことはないのだった。
後藤田氏は買収という事実(つるぎ町での2人逮捕は氷山の一角かもしれない)が発覚したにも関わらず自民党県連の会長に就任し、党再生の使命を持つと新聞で読んだ。自民党には大いに再生してほしいが、正々堂々の選挙で勝ってこそ、その任を全うできるのではないだろうか。 四国での民主党は、小選挙区勝利5人、比例区3人で大躍進、13位の私は落選となった。候補者になったことで、地元吉野川市をはじめ、阿南市や小松島市、名西郡、そして徳島2区でも何度か応援演説の機会をいただくなど、大変貴重な経験をさせてもらった。多くの人との出会いもあった。本人は初めから落選覚悟であるにも関わらず、期待して動いてくださった方々には感謝、特に、吉野川市の選対のメンバーには、事務局長という立場での比例名簿搭載を快く応援していただき、「ます子さんも一緒に国会に!」と励ましてくださった。今後の活動で恩返しをしていこうと思う。
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