吉田ます子のでんでん日誌 |
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活動日記 10月15日 |
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12月9日 師走に入り、慌しくなってきた。毎月9日に「憲法九条を守ろう」の緑の幟を持って朝の国道に立つアピールも、今年は最後の日となった。寒くなってくると、朝のたった1時間の早起きが、さすがに億劫になってくる。急いで朝ごはんを旦那につくり、一人で食べさせて、山川の四国銀行前へ。 この日に都合をつけて参加できたのは5人。7:30〜8:30の時間帯はお勤め組が参加できないが、平日に有給休暇をとった郵便事業株式会社(こういう名称になった)のメンバーが時々参加してくれる。そんな日は、「せっかくの休日に早起きしてくれたんだなぁ」って、思いがけず嬉しくなって、一日ハッピーな気分になる。 「吉野川市9条の会」では私が昨年から事務局長、代表は4名。その代表のひとりであるTさんは、数年前胃ガンが発覚し手術されたが、その後再発転移し、化学療法と抗がん剤を続ける苦しい中、毎月欠かさず朝の国道に立って下さっていた。何かあってはと心配されて、おつれあいも必ず一緒、お友達も誰かを一人は誘って下さっていた。「九条を守りたい」「平和を守りたい」その一念がTさんの生きる気力、支えになっているようで、元気な私たちも逆に励まされていた。 そのTさんが10月9日の朝の国道に姿を見せられず、悪い予感がした。案の定、入院されたとの事。何度か病室に足を運んだ。奥様がつきっきりで介護される中、「主人は政治の話、憲法の話になると元気が出てくるんですよ。」とおっしゃって下さった。「Tさんにも聞かせたい!」と11月3日のすばらしかった「9条の集い」での澤地久江さんの講演のDVDを手に入れ(多くの人のご協力がありました)持っていったけれど、聞いていただけただろうか。 11月から寒い日も多かったが、この日は比較的暖かで、と言ってもやはり師走の風は冷たく、約1時間、信号が50回も変わる中、足腰はこわばる。Tさんの回復を願いながら、そして12月5日に亡くなられた全国「九条の会」の呼びかけ人、加藤周一さんのこと、12月4日に亡くなられた「九条の会 徳島」の矢野和友さんのことを思い、私たちは彼らの思いをきちんと引き継いでいけるだろうかと、戦争体験者が次々といなくなってしまう不安も感じながら、ドライバーのみなさんにアピールをしながら過ごした。 狭い世の中 遅い朝食を終へ、洗濯物を干してさくら診療所に調剤に出かけると、青森のお父さんが2日に急逝され(85歳)帰省していた診療所の事務長(元青年海外協力隊員)のFさんが仕事に復帰していた。聞けば、クリスチャンであったお父さんは、召集令状に従いたくなかったが、家族に危害が及ぶこととの天秤にかけ戦争へ加担してしまったことを悔やみ続け、教会の友人たちにはそういう話をしていたらしい。戦後3年間シベリアに抑留され、苦労された。戦闘行為に参加してしまった自分を悔い、晩年は土とともに生きる道を選ばれたそうだ。新しい生命を育てることで、失われた生命の供養をされていたのだろうか。 「お葬式で家族の知らなかった父親の気持ちを友人たちから初めて聞かされてよかった」とFさんは話していた。そして嬉しいことには、全国に散らばった親戚に、各地で九条の会をしている人がたくさんいることがわかったという。その中に、徳島九条の会の事務局長である中島信先生の大学時代の先生という方がいらっしゃって「ます子さん、徳大の中嶋先生て知ってますか?」というのには驚いた。 中嶋先生はこのHPにも何度も登場しているし、徳島の大切な仲間(仲間なんていう言い方は失礼ですが、きっとお許しくださるでしょう。)だ。前々日の7日には廃棄物ネットで環境条例作りの意義を講演していただいたばかり。青森と徳島でこんな具合なのだから、世の中狭いものだ。こんな狭い日本なのだから、一人が変われば社会が変わる可能性だって大きいのだと思った。 |
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