5月29日
神戸の救急救助技術 海を渡る〜地球人カレッジ〜
神戸市消防局の正井潔さんが講師。彼は2004、2005年と、日本人救急専門家ボランティアによるザンビア救急隊の訓練を実施、JPR(日本国際救急救助技術支援会というNGOまでつくってしまった。
神戸淡路大震災の経験を生かし、救急救命で国際貢献をしようという団体だ。ことの成り行きは、彼が知人に託した名刺による1人の男性との出会いから。その男性とは、五十嵐仁(ひとし)さん。水戸市出身、鳴り物(救急車、パトカー、消防自動車)が大好きな救急オタク人間(五十嵐さんごめんなさい)。町を移動中にサイレンを鳴らした車に出会うと彼の目は輝きだす。
約10年前、日本の国際協力を担う外務省の外郭団体JICA(注:小泉さんの改革で今は独立行政法人)職員だった彼は、私の連れ合い吉田と出会った。
NGOなるものがもてはやされ始める前で、国際医療活動をするAMDAという岡山のNGOに所属し世界各地の紛争地域や貧困地域、災害地域に出かけていた吉田は、官であるJICAと民であるNGOが初めて提携した国際医療プロジェクトを立ち上げるため、1994年、アフリカのザンビアに派遣された。その時のJICA事務担当が五十嵐さんだったのだ。
1年の現地調査で吉田は「病気の治療だけではアフリカの諸問題の根本的解決にはならない。病気は栄養不良から来るものが多く、貧困対策と保健対策を総合的に行うプロジェクトが必要」という結論を出した。が、JICAはお役所、いわゆる縦割りで、「医療対策」をするために雇われた彼のプロジェクト案は却下、上司と喧嘩になり調整役として五十嵐さんがわが家にやってきた。
しかしミイラ取りがミイラになり、夫の壮大なザンビア貧困撲滅総合計画にすっかり乗ってしまった五十嵐さんは、当時大卒者の人気No.1企業(?)だったJICAを辞めて二人で新しいNGOをつくってしまったのだ。
五十嵐さんの年収は5分の1になり、二人ともほぼ全財産をなげうってザンビアに外国人向け高級(?)住宅を建て、現在その収益をプロジェクトの運営にあてている。初期投資は10年で回収される計画だったが、8年経った今、資金の回収率は1%くらい・・・。それでも、月々の収益は相当額で、ザンビア人を20名以上雇用し、ザンビアの救急搬送の体制を担う頼もしいNGOとして活動を続けている。10年たてば住宅はザンビア政府に寄付されることになっている。
正井さんの友人を介して五十嵐さんに届けられた名刺から、二人のメールのやり取りが始まり、五十嵐さんが一時帰国の際に神戸消防局を訪問し、正井さんのザンビア行きが実現する。首都LUSAKAに降り立った彼を待っていたのは、ザンビア警視庁をあげての歓迎だった。わずかの滞在時間、2日間で救急の基本をザンビア人に教えた正井さんは、「次はチームを組んで必ずまた来ます!」と約束してしまう。そして半年後、NGOをつくり5人の仲間とともに再びザンビアへ。
200万首都LUSAKAの救急事情
首都LUSAKAは人口約200万人に対して救急車約2〜3台。(故障で動かない時期があるため)95年からザンビアで頑張っている五十嵐さんは、TICOの協力を経て廃車処分になるけれどまだまだ乗れる日本の救急車をザンビアに送ったり(送料は車本体より高い!)普通のワゴン車を改造しストレッチャーを乗せただけの救急車2台をフルに活用し、救急隊員の訓練を実施し24時間態勢でザンビアの救急活動に貢献し続けている。
今回、正井さんという救急救助のプロである協力者を得て、どんなにか心強いに違いない。
助かる命が助けられる喜び
正井さん一行が帰国後、交通事故により車内に閉じこめられ、これまでは救出不可能であった命を車外に出し助け出す、ということがあったそうだ。
日本では当たり前に助かる命が助けられない、それがまた当たり前になっていた国ザンビア。
「正井さんに騙されてザンビアに行く羽目になりました」というメンバーだが、帰国の際は空港にたくさんの関係者が訪れ涙の別れだったとか。
「言葉が通じないのが心配だったが“人の命を助ける”という思いはひとつだったので、訓練に支障は少なかった」という。
JPRの設立日は、2005年1月17日、神戸淡路の震災記念日。
震災を乗り越えてきたプロの救急専門家の知識と経験を国際貢献に生かしたいという正井さんの想いがこめられている。
救急のプロの正会員の他に、賛助会員、フレンド会員も募集しており、フレンド会員の年会費は1000円。申し込みはホームページから。
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