8月24日
食と農のシンポジウム 地元のお米を給食に
私の選挙用パンフレットの政策の一番上には、「安心できる農林業政策」というのがある。
地元麻植郡の活性化策として、
そしてこの国全体の安心安全のためにも今のような農林業政策では未来の子どもたちに責任がも持てないのは明白だ。
そういう想いを一つにする者たちが「あわの食を考える会」をつくり、
今回の豪華講師陣によるシンポジウムが実現した。
会場は山川町のアメニティセンター。
収容人数が約500人と田舎町にしては立派な建物だ。
そしてここでイベントをするたびに来場者数が心配で胃が痛くなる私である。というのもマスコミによる宣伝とチラシを配るだけでは絶対的に人口が少ないため都会のように人が集まらないのだ。
開催日の2週間目くらいから決まって食欲がなくなり
「もう二度とアメニティではイベントをしないぞ」と心に誓うのだが、
そのうちに苦労を忘れ、何とかなるかな?とまた同じことをくり返す。
そんな10年間だ。
できるだけたくさんのメンバーが本気で人を口説いていかないと、講師の先生に申し訳ないような来場者の数になってしまうこと間違いない。
わざわざ新潟からきてくださるパネラーの方もいるというのに・・・。
この2週間日中のあまりの暑さに、夜中にチラシをポスティング、犬にかまれたこともあった。(「この犬噛みます。」という看板がありナントその犬が離してあったのだ。)
そして今日を迎えた。
代表の大西さちえさんをはじめとして小さい子どもを持つお母さん実行委員も本当によく頑張って、本日の来場者数約250名。町内は約50名、麻植郡内で約70名、お隣りの阿波郡や脇町から約45名、他は遠方からの参加であった。
来賓?あいさつ
実は私は主催の「あわの食を考える会」の一員なのだけれど、シンポジウムの冒頭で「県会議員」としての「祝辞」なるものを言った。
「ちゃんと政治家が応援しているというのが一般の人に見えた方がいい。」という代表の大西さちえさんや幕内さんの考えと
「政治家がやっているのはうさんくさい(選挙目当ての)イベント」と思われがちではないだろうかという心配り(?)からこういうことになった。
変な話だけれど、これまでの政治家に対する一般の人たちの意識はそんなものかもしれない。
選挙に出ようとする人が代表だといくら市民運動だと言っても「政治活動」とみなされ会場の使用料もとても割高になる。
基調講演 南国市 西森教育長
南国市は今年4月から19の全ての小学校で完全米飯給食が実現した。と西森さんは実に嬉しそうだ。
校長として最後の小学校を退職した際、「学校給食をまともに」と「学童保育の充実」の2つをやり残したと強く感じ、約8年前、現在のハマダ市長に教育長の職を依頼されたとき、迷わず引き受けたという。
今では、南国市は、家庭用電気炊飯器を教室に持ち込んだことも有名になり全国から視察が相次いでいるという。
もちろん今日にいたるまで、難関(議会、職員労組)はいくつもあり、「あきらめたらそこで終わり」ということで、実現に向かって粘り強く努力されてきた。
当時営農より金融に力を入れがちだった農協も今は「地産地消」に真っ向から取り組んでいるとか。
農業委員会は当初から良き理解者であったらしい。
すばらしいのは給食に使うお米は全て地元の山間の棚田で取れたもので、児童自らが田植え、稲刈りの体験をする。
「食育」を「知育」や「体育」の中心に据えた考え方は、すさんだ悲しい心を持ち、SOSを発する多くの子どもたちを現代社会の歪から救えるヒントではないだろうか。
行政に善き人材を得た自治体住民は幸いである。
パネルディスカッション
司会はおなじみの幕内秀夫さん(HP参照)
パネラー農水省官僚の勝野美江さんは藍住町出身だ。
京大時代、初めての一人暮らしに大都会京都でホームシックになり、田圃の風景が懐かしかったとか。ところが里帰りするたびに徳島市のべットタウン化するふるさとで田圃が家や道路に変っていく様を見て、「なぜ?」と疑問に思い農学部の先生に尋ねた。
「農業はもうだめだ」という言葉に「よし、自分が農水省に入って変えよう!」と入省した頼もしき阿波女である。
上村医師は、米どころ新潟のコシヒカリで有名な魚沼からはるばる来られた。地元でたくさんとれるお米が給食に使われないことを疑問に思った。
1600万人に達したといわれる糖尿病とその予備軍に内科医としての立場から「粒食」(つまりお米)と「粉食」(パン、麺類)の血糖値に与える影響等を語る。
身体は大きくなったけれど体力は落ちてきている最近の子どもたちのこと、肥満児が増えていること(1970年の2〜3倍)
悪いのは子どもたちではなくそういう環境をつくる大人たちだと地元の地方議会に給食に関する陳情を続ける行動派医師である。
3人目のパネラー大西聡弁護士は、「民主主義のがっこう」の代表、
大田勝手連の世話人としてもおなじみだが、小1以下3人のお子さんの父親として現代日本の食を嘆き、法律家として「学校給食法」をわかりやすく解説してくれた。
さらにアメリカの余剰小麦のはけ口として日本の学校給食が利用され、
その後もパンの味を覚えた日本人により自国の農産物の大きな市場をつくることにいたる、
まさにアメリカの食による世界戦略に見事なまでに私たちは乗っかってしまったということを熱く語る。
勝野さんは仕事柄西日本のいろいろなところを訪ねられたそうだが、
その中で一番印象に残っているところを話してくれた。
京都市の神川小学校。
なんと戦後のアメリカの援助を断った唯一の学校だそうだ。
自分たちの地域でお米ができるのにパンなんて必要ない、ということで、
親たちが作った野菜を持ち込んで自ら給食をつくっているとか。
福島県熱塩加納村はあまりにも有名。
どこも周りの大人たちが真剣に考え行動しているという。
シンポジウムは盛況のうちに終わった。
しかし、これからが本番、
徳島がどう変わっていくのか、楽しみである。
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