8月16〜17日
水俣の土石流被災地を行く
今年の夏はおかしい。ヨーロッパでは熱波による死者が数千人、日本では梅雨明けをしないままの東北地方、西日本でも熱帯夜はほとんどなく真夏日も極端に少ない。
梅雨が明けてもやたらと雨が多く、甲子園大会が雨で延期になった日も私の記憶ではここ30年来、今年がダントツで多い。
7月19日〜20日にかけて九州南西部を記録的な集中豪雨が襲い、水俣市で土石流による死者19名・・・。
みどりのダムに期待をかけ、森林の持つ多面的機能に注目する会派「県民ネットワーク・夢」として、同じような災害をできるだけ食い止めるためには森林整備が有効であるのか、被災地の山の様子を見ておきたいということで、急きょ視察を決める。
お盆期間の週末と重なったが、森林水門学の専門家である東大講師の蔵治光一郎先生に同行をお願いしたところ、快く引き受けて下さった。
豊岡さん、宮本さん、私の県民ネット3人と、吉野川の治水の可動堰への代替案としてみどりのダムの調査・研究を全力で支える「吉野川みんなの会」の代表Hさんにも学識経験者としてアドバイスをお願いし同行してもらうことになった。
川辺川ダム計画に疑問をもち運動をされている「川辺川県民の会」代表の中島康さんが丸一日半のガイド役を引き受けてくださった。
他にも、水俣市議の西川さん、県職員のMさんらのご協力を得て、とても有意義な視察となった。土石流のタイプは2種類
災害があったのは宝川内集地区と深川地区の2ヶ所。
災害当日から3週間が経過して、全壊・半壊の家は片付けられ、周辺の家々では静かに生活が営まれていた。
「災害が大きな爪あとを残す」というのはよくニュースなどで耳にする表現だが、みどりの山の途中から巨大な恐竜のまさに大きな爪あとのように山腹に向かって放射線状に山肌が茶色く剥き出しになっている。
それはちょうど谷に沿うような形、扇状地そのものの形だ。
出発前にも大雨が降り、2次災害も心配され「子どもたちをよろしく」と夫に言い残してきたが、いざ現場に立って下から眺めると「この山崩れが始まっている地点」を確認したくて、誰からともなく瓦礫の山をゆっくりと登り始めた。
一昨年、初めて山の保水力調査に参加した時に奮発したお気に入りのトレッキングシューズの出番。(それまで普通のスニーカーで山歩きをしていた足元こわがり屋の私は、このシューズを初めて履いたとき感動したものだった。何せバレーボールの審判台に立つのも怖いのだ。ぐらぐらするから。パンプスもキライ)
宝河内地区崩落の一番上は、痩せた手入れの出来ていない杉の人工林。
しかしこの地区では深さ10m以上も土が滑り落ちており、手入れのできていない人工林であるがゆえの地面の不安定さが崩落の原因と決め付けるのは難しいとのことだった。
引き金は林道の上下の土が不安定になっていたことかもしれないし、地質的なものもあるだろう。
しかしこのあたり一帯は、20年生位の太さに見える杉を切って年輪を数えてみると35〜36年生だった、
というような痩せたモヤシのような杉林である。
翌日に見せてもらった深川地区崩落の場合は、宝川内地区と違って手入れの悪い杉の表層がザーッと滑り落ちている、というもので、このタイプの崩落であればまさに強間伐をすることによって根がしっかり張り、表土が安定することによって防げる可能性は十分ありうるということだった。
そして、深川地区と同じような崩れ方の現場は他にも多く点在しており、たまたまその下に人家がなかったため注目されていないだけだった。
ものすごい量の雨と安全体制の機能マヒ
水俣では、前日の夕方にいったん降り止んだ雨が夜半0時過ぎに再び降り始め、1時までに通報すべき雨量の1時間あたり20mmを越え25mmを記録、
その後も激しく降り続き3時から4時には87mm,
4時から5時までには91mm。
50mm/時の雨が道の向こう側が見えないくらいというから91mmともなると1m先が見えないくらいだという。
観測史上初めての短時間の集中豪雨だったようだ。
熊本県芦北振興局には、深川観測局の警戒水位が通報水位を超えた午前3時に同観測局から自動ファックスが届いていたが、県から市への連絡がなされず、避難勧告が発令されたのは被害のあった午前4時20分を1時間以上経過した後だったという。
県ではポケベルを持って連絡を受けるはずの人がポケベルを忘れて帰っていたり、コンピューターの受信端末が1年前から故障していたり、今回の災害は危機管理の甘さから死者を出してしまった「人災」だという声も大きい。
日本全国どこで起きても?
水俣市の森林は全体の面積の75%、そのうち人工林が78%、手入れが出来ているのは僅かだ。
谷になっていて湧き水のあるところが崩れ落ちやすいところなのだが、崩壊している場所と同じような地形のところでも、天然林のところではほとんど表層が流れずに残っているという場面も見ることが出来た。
宝河内地区では、3基の治山ダム(砂防ダムと管轄が違うが目的や構造はほとんど同じ)が無残に崩れており、今回のような大規模な土石流に何の役にも立っていないという衝撃的場面もしっかり目に焼きついた。
百聞は一見にしかず。
訪問が平日で県や市の職員の同行が叶っていたなら、「危険だ」ということでとても現場を上まで行かせてもらえなかったかもしれない。
中島さんと夜球磨焼酎を飲みながらいろいろな話をした。
「熊本の県会議員で、崩壊現場を上まで上がってきた人はいないよ。県民ネットの3人はすごい!」と誉められて嬉しかった。
これで体力だけは自慢できる私たちだということがはっきりした。体力は全ての基本、これから4年間いい仕事ができるに違いない。
たまたま水俣地区を襲った集中豪雨であるが、全国の山も同じような状況にあり、今回のような記録的な雨が降った場合どこにでも起こりうる災害だろう。
徳島県民にとって「保水力による無駄なダムがなくせる可能性」「雇用力確保」という点で魅力的な「みどりの公共事業」であったが、「治山」という面でも大いなる新しい可能性を秘めており、急がなければならない事業であることを実感した。
また、先日の県土整備員会県西部視察の際、池田土木事務所にて
「水俣のような雨が降った場合、この地区の危険個所は大丈夫ですか?」という私の質問に
「正直言いましてあのような想定外の雨が降ればお手上げです。」
という所長さんの答えだった。
ハザードマップの作成も急がれるし、避難体制などが実際に円滑に機能するようにソフト面での対応の整備が重要になってくるだろう。
視察のおまけその1〜水俣資料館〜
2日目は雨の予報だったので1日目にできるだけ現場を歩いた。おかげで2日目には時間の余裕が出来た。
「せっかくだから水俣の資料館にご案内します。」という中島さんの言葉に喜びと緊張感。
「水俣病」は小学校の社会科でも日本の4大公害病として取り上げられあまりにも有名。
水俣病の資料館と聞いて公営の小奇麗な資料館を想像した。
しかし私たちを乗せた車がどんどん市の中心部を離れ標識もない道を何度も曲がっていく度に、なんだかおかしいな、と感じていた。
着いたところはボランティアらしい団体の鄙びた建物だった。
「水俣病センター相思社」。
この日まで私の中で水俣の悲劇は「チッソという環境や人の命より経済優先の企業によるとんでもない行為」というだけの認識であった。
しかしもうひとつ、日本の公害問題を代表するようなあまりにも有名なこの水俣の町で、実際に多くの市民が苦しみ喘いだ町において、その患者が同じ市民によって差別され虐待された、そして今もその差別は続いていることをお聞きして二重の悲劇がそこにあることを知り、呆然とした。
企業を相手に共に戦える市民であるならばそれは不幸中の幸いであったかもしれない。
しかし市民どうしが争い傷つけあうのはあまりにも悲しい…。
蒸し暑い日で、冷房もない館内であったが、展示はすばらしかった。
その中で水俣病を世界に知らしめたという1枚の写真が胸を突いた。
W・ユージン・スミスさんの「胎児性患者上村智子さんとその母」だ。
萎縮し、曲がった手足、やせた身体に焦点の合わない目、性別もままならないような胎児性水俣病患者の上村智子さんを母親がお風呂に入れている写真である。
すでに成長し身体の大きい智子さんを母親が一緒に湯船に浸かり支えている。病魔が全身を蝕んでいる智子さんを見つめる母の表情はまるで菩薩のように優しく、二人の姿はこの世の何よりも美しいような気がした。
この写真に出会えただけでも、水俣に来た甲斐があったと思った。
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